洛まち 京都の情報を掲載するサイトです   -京都の情報をご案内  洛まち(rakumachi)-    

総本山妙満寺

ホテル・観光, 北山丸太町出町柳エリア, 地域, 種類
LINEで送る

私たちの宗派「顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)」は、室町時代に開祖日什大正師によって開かれました。
宗名の「顕本」とは、「開迹顕本」という法華経の教えを表現した言葉からとられたものです。その意味は、「インドでご入滅されたお釈迦さまは、本当は今もなお永遠の命を持ち続け、常に人々に慈悲の心を注いでいらっしゃる」ということであり、法華経の中心である「寿量品」の中にはっきりと説かれています。
この寿量品に示されたお釈迦さまを「ご本仏」と仰ぎ、お釈迦さまが説かれた最も深い真実の教え―法華経を、純粋に受け持ち続けている宗派、それが私たち顕本法華宗なのです。

総本山妙満寺
妙満寺を創建した日什大正師(にちじゅうだいしょうし)は、もと天台宗で名を玄妙といい、比叡山三千の学頭にまでなった人でした。故郷の会津で日蓮大聖人の教えに触れられると、67才という高齢にもかかわらず宗を改め日什と名乗り、日蓮門下に入られました。
 そして、日什上人は日蓮大聖人の遺志である帝都弘通を想い、御歳68の老体をかえりみず都に上がり、時の帝・後円融天皇に上奏。二位僧都の位と「洛中弘法の綸旨」を賜り、康応元年(1389)六条坊門室町に妙塔山妙満寺を建立し、根本道場としました。

その後、近代になり都市化が進み日毎に増す喧騒と環境悪化を避けるため、昭和43年に「昭和の大遷堂」を挙行。現在の岩倉の地に移り今日に至ります。

 日什上人は稀代の碩学でありながら一巻の書物をも残されませんでした。これは「その書物のために仏の教えを誤解されてはならない」と配慮されたためであり、釈迦牟尼仏より日蓮聖人に受け継がれた正しい教えを、自分の意見をはさまず素直に受け持つように戒めました。これを「経巻相承・直受法水(きょうがんそうじょう・じきじゅほっすい)」といい、妙満寺の宗是となっています。

 妙満寺はその後、応仁の乱など幾度かの兵火に遭い、そのつど洛中に寺域を移し興隆してきましたが、天文5年(1536)、比叡山の僧徒による焼き討ちで二十一坊の大伽藍を類焼。一時は泉州堺に逃れ、天文11年に元の地に復興したという苦難の時代もありました。そして、天正11年(1583)豊臣秀吉の時代に寺町二条に移され400年にわたり「寺町二条の妙満寺」と親しまれてきました。
宗祖日蓮大聖人は、鎌倉時代の貞応元年(1222)、安房国小湊(現在の千葉県鴨川市小湊)に、漁師の子として誕生されました。12歳のときに清澄山に入り、16歳で出家されると、比叡山をはじめ高野山、南都(奈良)など各地の諸大寺で一切経を学び、法華経こそ末法の衆生を救う唯一の教えであると確信されました。そして、建長5年(1253)、32歳の春に故郷・清澄山の山頂で初めてお題目をお唱えになり、立教開宗を宣言されます。大聖人は故郷を離れ、時の政治の中心であった鎌倉を拠点に、積極的に辻説法や幕府への諫暁をなされます。

 当時、鎌倉幕府の権威は弱体化し世の中は乱れ、また相次いで起こる天災地変や蒙古の襲来など、社会不安が増大していきました。大聖人は、末法の世を治める教えは法華経しかないとの信念を『立正安国論』に表明して幕府に進言、世の人々には法華経の尊さを説き、念仏をはじめ他の宗派をやめて改宗するよう迫りました。しかし、烈しい大聖人の布教の姿勢は、幕府や他宗信徒の怒りを買い、罵詈雑言を浴び、投石を受け、草庵は焼討ちされ、さらには伊豆配流になるなど数々の法難に遭われます。それでも日蓮大聖人はひるむことなく「不惜身命」を信条に布教を続け、誤った教えを弘める他宗の批判を繰り返されたために、ついには龍ノ口での法難、佐渡への配流となりました。

 極寒の佐渡でのお暮らしは困窮を極めましたが、ここでも大聖人の正法弘通のご精神は衰えることなく、教義の集大成ともいえる『開目抄』『観心本尊抄』をはじめ多くの御書を著し、また大曼荼羅ご本尊を書き顕されています。あしかけ4年におよぶ佐渡配流を許された大聖人は、鎌倉に帰り三度の諌曉を行います。幕府も、蒙古襲来など予言を次々と的中される大聖人のお力を認めますが、国力を挙げて法華経を信仰せよ、との願いはついに聞き入られることはありませんでした。

 文永11年(1274)、大聖人は法華経信仰の道場を求めて身延山へ入られ、以後9年の間、弟子や信者の教化と法華経の行者として修行に専念されます。61歳になられた大聖人は、数々のご法難と身延山中での厳しい生活により、日を追うごとに病が重くなられました。そこで養生のため、身延山を下りて常陸国へ湯治に向かわれます。途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区)の池上宗仲の邸に招かれますが、弘安5年(1282)10月13日、弟子信者が見守るなかついにこの地でご入滅されました。

 大聖人は、「末法に法華経を弘めるものには大きな苦難があるが、それにひるまず法華経を弘めよ」というお釈迦さまのお言葉を深く心に刻み、数々の苦難に立ち向かい、生涯を法華経に捧げられました。その尊いご精神は、いま私たち顕本法華宗に正しく受け継がれています。
名称総本山妙満寺
住所〒606-0015
京都市左京区岩倉幡枝町91
電話番号TEL 075-791-7171
FAX 075-791-7267
URLhttp://www.kyoto.zaq.ne.jp/myomanji/
総本山妙満寺 俳諧(俳句)の祖といわれる松永貞徳(1571~1653)の造営した枯山水の庭です。

 貞徳は寛永6年(1629)11月25日、妙満寺を会場に正式俳諧興行として「雪の会」を催しました。これにより俳諧は、それまでの連歌から独立した文芸として認められるところとなり、後に松尾芭蕉や与謝蕪村などを輩出して確立し今日に至っています。妙満寺は俳諧(俳句)の地といえます。

 妙満寺の塔頭・成就院の時の住職日如上人は貞徳の門下であり、その縁からこの「雪の庭」を造営した。清水寺本坊の「月の庭」、北野(一説に祇園)の「花の庭」(現存しない)とともに、いずれも成就院にあったことから成就院「雪・月・花の三名園」と並び称されていた。

 昭和43年妙満寺が中京区の寺町二条からこの岩倉の地に遷堂した際、石組みをそのままに移築し本坊の庭として復興しました。

 その名の通り、冠雪の比叡山を借景とした眺望が最も美しい庭です。
「鐘に恨みは数々ござる」で知られる紀州道成寺の霊話は長唄、歌舞伎等の芸能に取り入れられています。その物語に縁あるこの鐘は数奇な運命で当山に伝わりました。

 正平14年(1359)3月31日、道成寺では安珍・清姫の伝説以来、永く失われていた鐘を再鋳し鐘供養を盛大に営みました。すると、その席に一人の白拍子が現われ、舞い終わると鐘は落下し、白拍子は蛇身に変わり日高川へと姿を消してしまいます。その後、近隣に災厄が続いたため、清姫のたたりと恐れられた鐘は山林に捨て去られました。

 それから200年あまり経った天正年間、その話を聞いた「秀吉根来攻め(1585)」の大将・仙石権兵衛が鐘を掘り起こし京都に持ち帰りました。そして、時の妙満寺貫首日殷大僧正の法華経による供養で怨念を解かれ、鳴音美しい霊鐘となったと伝えられます
総本山妙満寺